スミレの日記

日々の生活、喜びと悲しみ、特別な出会い、ちょっとした考えや思いつきをブログに書き残してみます。

エピソード記憶

最近、『エピソード記憶』という言葉を知った。

 

なにかしら「忘れてた!」っていうのは、エピソードのあんまりくっついていないものが多いように思う。

例えば、約束に至る経緯がほとんどない約束とか、人となりを知らない人との約束とか、エピソードのない場所での約束とか。

以前、とても大事なのに忘れてしまった約束は、今思えば上記3コンボだった。

逆に、エピソードがいっぱいくっついているものはなかなか忘れないし、結構細部まで覚えている。

 

エピソードがくっついているか否か、くっついているエピソードが多いか少ないか。

この違いで、「物覚えが良い面」と「物忘れが激しい面」が入れ代わり立ち代わり出現する。

 

話は変わるけど、ファイリングについて昔から感じていたことがある。

まずはファイルの背表紙に書かれたファイル名について、その時使ったペンとか、気分で微妙に変わる筆跡とか、あの人の筆跡、この人の筆跡とか。

それから、ファイル本体について、その時手元にあったからとかたまたま空いていたからとかで使った、色々なファイルの色・形とか。

新品じゃないファイルなら、その前に綴じていた書類の記憶とか。

そういうのを込みで、ファイルを収納した場所、そのファイルに収納されている書類、その書類をそのファイルに綴じた時期や順番を記憶していた(と思われる)から、きれいにファイリングしましょう、っていう世の中の流れで、色・厚さ・ブランドを統一したファイルに同一フォントのテプラを貼った背表紙が並ぶようになって、書類を探せなくなってしまった。

それまでは書類を取り出すのに時間もストレスも感じなかったのに、書類探しに時間も手間も取られるようになって、思考が切れて、結果効率が落ちるという…。

 

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イメージを描くとこんな感じ。

左がファイリングシステム導入前、右が導入後。

導入前は、ファイルの背表紙に目をやる最初のアクションで、すでに書類が分類されていた。

「あの書類は、〇〇さんが新品のぺんてるのサインペンで書いたタイトルが背表紙の上寄りに書かれている、〇色のコクヨの紙ファイルの真ん中あたりにあったな(いちいち文字で考えないよ、その背表紙のイメージがポンって浮かぶだけだよ)」って記憶から、そのファイルを探す感じ。

導入後は、ファイルの体裁が同じだから、ひとつのファイルとしてしか認識できなくて、書類はそのひとつのファイルから探し出す感じ。

 

こう書くとエピソード記憶関係ある?って感じがしなくもないけど、大いに関係ある話なんだよなー、私にとっては。

っていうか、エピソード記憶って言葉を知ったよ!ってことを書き留めるだけのつもりだったのに、なんでファイリングのことを、しかも絵まで描いてボリューム多めに書いてるんだろ。

仕事がやりにくくなってしまったこのファイリングの事象について、一度その理由を考えてみたいなあと思っていたのだけど、今がそのタイミングだったらしい。

 

最近は、「エピソードを排除する」のが合理的って空気を感じるけど、その風潮にはたぶん一生馴染めないな。

ほんとになあ

headlines.yahoo.co.jp

こうやって煽るだけ煽るんじゃなくて。

自治会の構成員となる資格について、地元神社の氏子に限定している」理由を取材して、一緒に書いてよ。

「昔からこうだった」とかでもなくてさ、こういう歴史があってこういう事があって、こういう経緯があって、今こうなってます、っていう。

 

「解決しよう・手助けになれば」っていうより、「戦おう・噛みつこう」っていう姿勢が際立っているように見える。

こういうのが、すごくイヤ。

ランニングシューズ

健康維持、体力維持、筋力維持、体型維持、心肺機能維持、気分転換。

そんな目的で、トレッドミルアスファルトの上を時々走っている。

しかし、調子に乗ってオーバーワークが続くと足を傷めてしまい、一度傷めてしまうと、ぐずぐずだらだらと不調が続く。

足の傷め方やランニングシューズの底の減り方を見るに、私はアンダープロネーション(気味?)らしい。

 

参考

Pronation プロネーションガイド|アシックスランニングサイト | アシックス - ASICS

 

ずっとGT-2000やGEL-KAYANO(ゲルカヤノ)を履き継いできたけど、このことを知ってから、アンダープロネーションの人向けだという、アシックスのGEL-NIMBUS(ゲルニンバス)を履くようにしている。

先日、GEL-NIMBUS19(以下19)がネットで安くなっていたので、購入した。

久しぶりに、新しい靴底で走るのも気持ち良いよなあ、と思って。

安くなっていた理由は、型落ち。

GEL-NIMBUSの一番新しいモデルは20。

私が現在使用しているのは18なので、安くなっていた19は次のモデルってことになる。

 

届いた靴は、いつも履いているランニングシューズと同じサイズ、同じワイズなのに、2サイズくらい小さいんじゃないの?ってくらい小さかった。

以下、その記録。

 

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水色が19、紫が18。

「履き慣らしてクッションがへたった18に対して、新品の19がきつく感じている可能性」はもちろん否定しないけど、全くそういうレベルの話じゃなくって。

18を買った時、初めて足を入れた瞬間に、ゆったりと柔らかく、でも足にきちんとフィットしたことに心底感動した。

だがしかし、19はなんとか足が入るものの、靴の中で足を伸ばせず、足の裏に皺が寄ってしびれる感じ。

店頭の試履きでこんなだったら、絶対買わない。

並べてみると、明らかに前方のボリュームが違う。

そう、そうなの。

土踏まずから前方が、ほんとに狭い。

(写真は全て、かかとを揃えた状態で撮影)

 

そりゃ同じシリーズでも18と19なら履き心地が違ってもおかしくないけど、でもこれさすがにどうなんだろう…と思って、今更ながらネットの口コミを検索したら、「小さい」という声がちらほら。

もともとアシックスは「きつめ」「小さめ」って言われているんだけど、今回、特に米国のアマゾンには、ずっとアシックスを履いてきた人からの「アシックスに何があったの?」「別のメーカーを探さなきゃ」っていう、驚きや途方に暮れたレビューが。

 

もちろん、「ぴったりです!」「さすがアシックス!」っていうレビューだってたくさんある。

要は、メーカーさんは自社で狙いたい客層に向けてモデルチェンジしているわけで、

 

「間違いなく、私はGEL-NIMBUS18の客だった。しかし、19の客ではないのだ」

 

という事実を受け止めなきゃ。

でもなー、ずっとアシックス履いてきたのに、これからどうしたらいいの。

 

GT-2000の5も、同じサイズをネットで購入して時々履いているんだけど、(モデルチェンジで)履き心地が硬くなったかな、って思うもののサイズに問題はなかった。

基本設計っていうか、型が大きくリニューアルしたのかなあ。

GEL-NIMBUS18は自分史上最高の靴なのでショックが大きい…大きすぎるよ!

 

GEL-NIMBUS20、はたまた次の21(おそらく)は、再び私を客として迎え入れてくれるだろうか(20は試してないから試しに行こうかなあ)。

 

テレビ

私はあまりテレビを観ない。

能動的に、時々観る番組は限られている。

観ていないテレビを、BGMのようにつけっ放しにしておくことはない。

「無駄に騒々しいなあ」とか「つまらないなあ」っていうのが理由だと思ってたけど、そうじゃなかった。

 

なんかね、特にニュースや情報バラエティの不寛容さに疲れちゃうみたいなの。

他人が、自分と違う意見や気持ちを持つことを認めない・許さないキャスターとかコメンテーターとか番組そのものの構成とか。

 

テレビから伝わる「認めない・許さない」が、自分の中で反発して「認めない・許さない」になってしまう事。

これが本当に疲れてしまう。

テレビがエスカレートして、ヒステリックになればなるほど、自分の中でもエスカレートしてしまう。

 

例えば、「不寛容だ」「差別的だ」って声高に言う人の方が、よっぽど不寛容で差別的に感じること。

そうじゃないかもしれないけど、私はそう感じてしまう。

テレビをつけっ放しにしていると、こちら側が望むと望まざるにかかわらず、突然そういうのをリビングに投げつけられるじゃない?

で、「はあ?何言ってんのこの人」ってなってしまう。

不寛容だ、差別的だって言えばなんでも正義になるわけじゃないわよ、って。

そんな風に、突然負の感情を引っ張り出されて、臨戦態勢をとらされてしまう。

 

そういうの、精神衛生上ほんとに良くないと思うし、その連鎖が社会を不寛容にしてしまう原因のひとつなんじゃないかな、って最近思うの。

水彩用の筆

軸に水を入れて使う水彩用の筆を、使ってみたかった。

36色の水彩色鉛筆を持っているので、絵を描いてみようかな、と思った。

とりあえず1本、水彩用の筆を買った。

 

その筆を使ってみたいと思っただけで、何か描きたいものがあるわけじゃなかった。

白い紙に、色鉛筆で被写体のない絵を適当に描いて、筆でなぞってみる。

色鉛筆の芯から筆で直接色をとって、白い紙に置いてみる。

楽しいけれど、描きたいものがないから、何がしたいのかわからなくなる。

 

なんだか、言葉と似てるな。

伝えたいことや知りたいことがなければ、言葉なんか持たなくていいんだから。

絵は、被写体や描きたいものとのコミュニケーションツールなのかも。

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全米

今朝テレビを観ていたら、大坂なおみ選手が「(表彰式の)ブーイングは悲しかった」「感情的になってしまった」って言っている映像が目に入った。

詳細が知りたかったので検索をしたら

news.nifty.com

この記事が出てきた。

彼女は、自分の感性を素直に表現できる、すごい才能の持ち主だなあ。

ところで記事には

全米が大坂選手を擁護

って書かれているんだけど、表彰式でブーイングした多くの人々や、同じく表彰式で「私たちが求めた結末ではなかった」「セリーナは王者の中の王者」って言った全米テニス協会の会長自身が「全米」の中の人たちよね。

どこか、よその国のできごとなのかな?

www.sankei.com

さて、しばらくの間はスポーツ記事を中心に、大阪→大坂の誤変換が増えるのかも。

 

同日追記)

紋切型の表現でモヤっとしたの、他にもあったんだ。

思い出した。

 日本女子テニスの歴史を塗り替えた。

 って表現だ。

頻出している表現だけど、歴史を刻んできた先人たちに失礼だな、って思っちゃった。

歴史に新たな1ページを刻んだ、の方が落ち着くなあ。